経済・社会

真面目は損? 資本主義・SNS・政治…めんどくさい人間社会攻略

Table of Contents

なぜ「真面目が損をする社会」が叫ばれているのか

近頃、ニュースやSNSなどでしきりに「真面目な人ほど損をしている」「倫理観の欠如した人ほど得をする世界になっている」といった声が見受けられる。政治的な不正、企業の不祥事、あからさまなマネー至上主義――そうした現象を目の当たりにして、「こんなはずじゃなかったのに……」と嘆く人は多い。

だが、一方で「悪いことをしている連中はちゃんと破滅しているじゃないか」と反論する意見もある。さらには「時代が変わりつつある」「昔から変わらない」「ネットで可視化されているだけ」と、さまざまな分析が飛び交う。要するに、真面目・不真面目をめぐる議論が、いまや世界の大きなテーマになりつつあるのだ。

この記事は、そんな混沌としたテーマを一つの流れとしてまとめ、さらに深く掘り下げてみることを狙いとしている。人間社会のめんどくささを、真面目に生きることの光と影を、あるいは資本主義や政治の問題を、マクロとミクロの両視点から容赦なく切り込んでいく。さらには、それを超えるような視点――倫理観とは何か、社会システムの終着点はどこなのか、あるいは新しい提案やぶっとんだ未来予測――も可能な限り提示してみたい。

ここでは「真面目が損をする」論の背景を整理し、「それでも誠実さやモラルを守る意義」を見出す道筋を探るとともに、資本主義や政治の構造、SNS社会のインパクトなどを絡めて解説していく。最後まで読み切れば、あなた自身の思考や行動が大きく揺さぶられるかもしれない。なんなら読みながら「めんどくせぇ社会だな」と心から思うかもしれないが、そこから得られる洞察はきっと大きいはずだ。


現代の「真面目 vs. 不真面目」論争が生まれる背景

矛盾する価値観がぶつかり合う社会

現代社会では、人々の価値観が極端なまでに多様化している。表向きは「正直で真面目にやるべきだ」というモラルが健在のように見える一方、実際にビジネスや政治で大成功している人物を見れば、言い方は悪いが「グレーゾーンに踏み込んで稼いでいる」人が少なくない。たとえば企業の粉飾決算や大規模な脱税、政治家の汚職など、ニュースを見れば挙げ始めたらキリがない。

ここで大事なのは、社会は表向きに「正しさ」を喧伝し続けているが、その裏で「不誠実でも勝ってしまう人間を意外と批判しきれない」矛盾構造があること。そうした矛盾が積み重なるほど、世の中には「どうせ悪いことしてもバレない奴が得をするんだろ?」という不信感が広がってしまう。

そしてもう一つ、ネット社会やグローバル化によって、いろいろな不都合な真実が可視化・拡散されやすくなった。たとえば政治家の疑惑や企業の闇をSNSで拡散すれば一瞬で大騒ぎになる。にもかかわらず、フタを開けると責任追及がうやむやになり、最終的に誰も罰せられないケースが後を絶たない。そうなると「もう真面目にやっていても報われないよな」と、ため息が漏れるのも無理はない。

資本主義の最終形態? 新自由主義のインパクト

「真面目 vs. 不真面目」議論を煮詰めていくと、資本主義の行き着く先というテーマに行き着く。古典的な経済学では「自由競争によって効率が高まり、みんな豊かになる」という理想が語られてきた。しかし現実には、巨大資本や権力と結びついたプレイヤーがあらゆる分野を寡占してしまうのが資本主義の典型的帰結だ。そして一度寡占状態が生まれると、倫理に反するようなやり方でもさらなる利益をかっさらう者が出てくる。

特に「新自由主義」的な考え方が席巻した国や時代を振り返ると、規制緩和の名の下で格差拡大がどんどん進むことが多い。労働者や一般市民は低賃金に甘んじ、不誠実な大企業や権力者が莫大な利益を蓄える構造になりがちだ。結果、「真面目にコツコツやっても一向に浮かばれない」と嘆きたくなるのは当然だろう。

ただし、一部の経済学者は「不誠実に振る舞うプレイヤーは結局のところ破綻する」と指摘する。長期的な視点で見れば、信頼を失った企業や個人はどこかで大きく転落してしまう。いわゆる“因果応報”を信じたくなる理由だが、実際には「逃げ切れる人は逃げ切る」というケースも多く、そこが現代資本主義のジレンマとなっている。

政治やメディアへの不信

「真面目な人ほど損をする」感覚を増幅させているもう一つの要因は、政治とメディアへの不信だ。たとえば日本であれ世界であれ、政権や主要メディアが大きな汚職や背信行為をスルーしたり、取り上げても結局責任逃れが成功したりする。これによって一般市民は「声を上げても意味がない」「どうせ支配層は法に守られるんだろ」という無力感を抱きがちだ。

さらに、多くの国で投票率は大きく下がり、政治参加へのモチベーションは著しく低迷している。メディアがスキャンダル的報道ばかりを煽って、結果的に本質的な政策論争がどこかに飛んでいく現象も起きている。こうした状況では「真面目に政治を変えようと頑張るより、適度にズルしたほうがマシなんじゃないか」と思う人も出てくる。そうやって倫理観や社会性がスポイルされていく流れは、まさにめんどくさい。


「因果応報は本当にあるのか?」というジレンマ

罰を受ける悪人、逃げ切る悪人

悪人や不誠実な人間が、どこかで大転落していくニュースを目にすることは少なくない。政治家や大企業のトップなど、悪事が暴露されて人生を棒に振るケースは確かに存在する。一方で、完全に逃げ切っている人がいるのもまた事実だ。

たとえばカネと権力を駆使して司法を買収する例や、表には出ないグレーなやり口で財を築いて悠々自適のまま老後を迎える例がある。SNSで暴露されても、すぐに情報が埋もれて忘れられることも多く、結局は無傷のまま。そうなると「いつか罰が当たるよ」「必ず地獄に落ちる」という言葉は、単なる精神安定のための“信仰”に過ぎないように思えてしまう。

この「罰を受ける悪人」と「逃げ切る悪人」の狭間で、「じゃあ真面目にしてる私は報われるの?」という問いに対する明確な答えは出てこない。人間社会は所詮めんどくさい構造を抱えていて、完全にシロクロを断定できない状態にあるのだ。

自分の良心が自分を裁く?

もう少し内面的な話をすれば、不誠実な人間はたとえ逃げ切ったとしても、内心には恐怖や後ろめたさを抱えているケースが多いだろう。どこかで誰かにバラされるのではないか、いずれ社会的に糾弾されるのではないか……と怯えながら暮らす人生は、本当に得をしているのかどうか怪しいとも言える。

ただし、「良心が痛むかどうか」も人によって大きく違う。生来のサイコパス気質であったり、ほとんど罪悪感を感じないタイプの人間にとっては、倫理観の欠如に何ら支障をきたさない。そうなると、周囲の人が「あいつは罰が当たるはずだ」と思っても、本人はストレスもなく平気で生きていたりする。もはや因果応報という観念が通用しない人も確かに存在するのだ。

真面目さと「能力」のセットが重要?

ある見方では、「真面目に努力するだけでは食われるリスクが高いが、実際には真面目さに加えて情報や行動力、知恵などを身につけた人は報われやすい」という分析もある。言い換えれば、誠実なだけで大人しくしていると搾取される可能性が高いが、そこにプラスアルファで主体性や戦略を持つと、一転して強みになり得る、という考え方だ。

たとえばビジネスであっても、「正直者がバカを見る」ではなく、「正直者かつ頭が切れる人は強い」というパターンは少なくない。誠実さを武器に信用を積み上げつつ、したたかに事業を展開すれば、逆に“悪党”よりもうまく立ち回ることもできる。これが事実かどうかはケースバイケースだが、一種の希望を与えてくれるシナリオでもある。


SNSと情報可視化がもたらした混乱と覚醒

ネット時代にあふれる「非誠実」の目撃例

数十年前までは、社会の裏側は見えにくく、テレビや新聞が報じない不正や闇は闇のままに葬り去られていた。ところがSNS時代になると、疑惑や醜聞がバンバン拡散されるようになった。これによって「世の中にはこんなにもクズがいたのか」と驚かされるケースが増えている。政治家のスキャンダルや有名人の不倫、企業の内部告発など、枚挙に暇がない。

しかし、一方で拡散されすぎることで情報が飽和し、人々は「え? そんなスキャンダルあったっけ?」と数日で忘れてしまう。極端に言えば「炎上は3日で終わる」。このサイクルが繰り返されるうち、もはや人々はどこか慣れっこになって「不誠実なやつがいても驚かない」という感覚になりがちだ。結果、「結局はズルい奴が逃げ切るんだろうな」という諦観が広がりやすい。

可視化された「真面目にやってきた人たち」の叫び

SNSによって、逆に昔は声を上げられなかった真面目な層の不満も可視化されるようになった。「自分はちゃんと働いて税金も納めているのに、なんで給料がこんなに安いんだ」「なんで権力者や金持ちはむちゃくちゃなことをやっても罰せられないんだ」というリアルな声がタイムラインを埋め尽くす。

こうした不満が可視化されるのは良い面もある。社会の問題点が明るみに出て、共感や連帯が生まれるからだ。だが、そこから本当の改革やムーブメントにつなげるエネルギーがどこまであるかは疑問だ。結局、国や大企業の仕組みが大きく変わることはそうそうない。「真面目に生きている人のやり場のない怒り」が鬱積する一方で、いたずらに分断や対立が煽られてしまうケースも目立つ。

オンライン化が人間関係を変える

もう一つ興味深いのは、現代人がオンラインコミュニティでの繋がりを重視するようになったことだ。リアルの会社や地域社会の中では評価されず損をしている人でも、SNSやオンラインサロン、マッチングサービスなどを活用すれば、自分に合った仲間やパートナーを見つけられる可能性が広がる。

それは「逃げ道」と捉えることもできるし、「新しい世界を築くチャンス」と捉えることもできる。真面目なのに報われない人にとって、オンライン空間はある種の救済にもなる。ただし、匿名性が高いがゆえに詐欺行為や誹謗中傷、さらなる不誠実さを誘発する場にもなりうる。結局、人間社会はオンラインでもオフラインでもめんどくさい、という結論に近づくかもしれない。


歴史を振り返る:「正直者がバカを見る」は本当だったのか

古代から続く人間社会の本質

歴史をざっと眺めれば、権力や資源を独占した者が横暴の限りを尽くし、真面目に働く農民や下層民が搾取され続ける……という構図は古代から散々繰り返されてきた。つまり「正直者がバカを見る」状況はなにも現代の資本主義だけの問題ではない。昔から人間の業のように存在してきたものだ。

ただし、そのたびに革命や改革が起こって支配体制が崩壊したり、あるいは宗教や思想によって統制が図られたりして、多少の修正が行われてきた。たとえばヨーロッパではキリスト教的倫理観が、アジアでは儒教や仏教的な考え方が社会全体をある程度の秩序に導いてきたとも言える。だが、大局的には“ズルい奴が大儲けする”のを防ぎきれていないのが現実だ。

近代以降に芽生えた「平等・自由」の理想

近代では啓蒙思想や近代革命によって、人間の平等や自由を謳う理念が強調された。それまでの封建制・身分制から解放され、誰でも努力すれば成功できる――そんな明るいイメージが広まったのだ。いわゆる「アメリカンドリーム」もその延長にある。真面目に頑張れば報われる、という希望はここで一気に花開いた。

しかし、現実には新たな権威や資本家が生まれ、再び不平等や搾取の構造を生む。そのたびに労働運動や社会主義運動が台頭して、革命や変革を促したものの、最終的に「どの体制でも腐敗が起きる」という歴史が繰り返された感がある。右や左のイデオロギーに関係なく、いずれにせよ「人間という生き物はめんどくさい」という結論に落ち着いてしまう。

“同じことの繰り返し”が21世紀のSNS時代で再燃

21世紀に入り、ネットが普及したことで、また新たな「人間解放」の希望が語られた。誰もが情報発信でき、国境を超えて繋がれる。これによって、一部の支配層による独占体制を壊せるのではないか――と期待されたのだ。

しかし、蓋を開けてみると、巨大プラットフォーマーが登場し、データ独占を強め、アルゴリズムで世界を左右し始める。結局は新しい“王”が生まれる形となり、真面目にコツコツやっている人が報われるかどうかは怪しい。21世紀になっても人類は同じようなことを繰り返しているというわけだ。


資本主義・政治・道徳観から考える「今後の社会」

“歯止め”がなければ暴走する

資本主義は「自由競争」という名の下、巨大格差を拡大するメカニズムを孕んでいる。政治も同様で、放っておくと腐敗が進むのが常だ。実際に、歴史上のどの時代でも、権力や金が集中した組織や個人が思うままに横暴を繰り返してきた。この暴走を抑えられるかどうかは、結局のところ法や社会制度がどれだけ機能し、国民がどの程度政治に声を上げるかにかかっている。

しかし、日本を筆頭に、政治に対する無関心やメディアコントロールの巧妙化によって、歯止めがかからない状況が続いている国もある。これは未来において、さらなる格差拡大や倫理の崩壊を招くかもしれない。一方で、ある程度のところまで行くと社会が破綻してしまうので、どこかで強制的な“調整”が入るリスクもある。歴史的に言えば、大暴動や革命、政権交代などがその役割を果たしてきた。

因果応報を超えた“長期視点”

真面目に働くことと、不誠実に振る舞って得をすること――この二つの対立構造だけで社会を語ろうとすると、どうしても堂々巡りになりやすい。そこで鍵になるのは、「いま自分が得をするかどうか」ではなく、長期的な社会や未来世代への影響まで視野に入れる考え方だ。

不誠実な稼ぎ方は短期的には儲かるかもしれないが、長期的に社会や環境を破壊して、未来世代に大きなツケを回すかもしれない。つまり「持続可能性」が失われ、すべてが崩壊するシナリオだ。逆に、自分の利益を少し我慢してでも社会を良くする方策をとることが、長期的には自分を含めたみんなの利益になる、という考え方もある。これをどこまで本気で共有できるかが、人間社会の進化を左右している。

新自由主義 vs. 集産主義の再燃か、それとも新たな第三の道か

経済や政治の文脈でしばしば語られる対立は「右か左か」「新自由主義か社会主義か」というものだが、21世紀にはこれを超える新しい仕組みの模索が始まっている。たとえば、協同組合的な考え方やベーシックインカム的な制度設計、環境保護と経済発展を両立させる取り組みなどだ。

このような動きが本格化すれば、「倫理が崩壊して不真面目が得をする」社会からの脱却が可能かもしれない。だが、それには政治参加や制度改革が欠かせないし、既得権益とぶつかることも必至。要するに「めんどくさい」を避けては通れない。無関心なままでは、いつまでも同じ構造が続くだろう。


「めんどくさい人間社会」から逃れたい? それとも戦う?

逃避の先にあるもの

「こんなめんどくさい社会にはうんざり」と考える人は少なくない。極端な例としては、完全に自給自足の生活を送り、文明社会とは距離を置く道もある。あるいは海外へ移住して、より自分に合った国やコミュニティを探すという選択肢もある。しかし、どこへ行っても基本的に人間社会がめんどくさいことに変わりはないという可能性が高い。仮に一時的に快適でも、別の矛盾やトラブルが発生するものだ。

“戦う”という選択肢

一方で「社会をより良くしたい」という強い意志を持つ人は、政治運動や市民活動、あるいはビジネスの世界でイノベーションを起こそうとするかもしれない。これは当然ながらめんどくさい。周囲の無関心や既得権との対立に苦しむだろう。真面目で誠実であればあるほど、摩擦は増える。

それでも「行動する真面目人間」が増えれば、何らかの変化が生まれる可能性がある。実際、歴史を動かしてきたのは「声を上げる市民」が結集した瞬間にほかならない。フランス革命から公民権運動、近年の大規模デモやSNSを使ったキャンペーン――すべては「こんな社会は嫌だ」というめんどくささを乗り越えた人たちが原動力になっている。

中庸という生き方

逃避も戦いもしたくない人には、「少し距離を取りつつ、ほどほどに付き合う」という中庸の在り方がある。社会のすべてを変えようとはしない。でも、自分の生活や小さなコミュニティのなかで誠実さを守り、搾取されないように工夫しながら、静かに豊かな暮らしを実現する。この道は平凡だが、実は人間の大多数が選んでいるかもしれない。

大企業に勤めて休日は家庭を大事にして過ごす人もいれば、小さなオンラインビジネスを展開してそこそこ稼ぐ人もいる。そういう微妙なバランス感覚で人生を楽しむのも十分アリだろう。「めんどくさい社会」を俯瞰しつつ、直接は関わりすぎないスタンス。ある意味で最適解の一つかもしれない。


真面目と不真面目の境界線は本当にあるのか

倫理や正義は主観的要素が強い

誰かが「お前は不真面目だ」と裁いても、当人からすれば「自分は必死にやってる」と感じているかもしれない。あるいは周囲が「なんて卑劣な……」と言う行動をとる人間も、「あれは合法の範囲でやったんだ」と言い張るかもしれない。結局のところ、真面目か不真面目かを判断する基準は人それぞれで、社会によっても、時代によっても違う。

たとえば恋愛面でも「自分の欲望に忠実で相手の都合を無視する人ほどパートナーを作りやすい」などという話がある。傍目には不誠実に見えても、当人たちには独自の論理があるかもしれない。モラルや倫理というのは、思いのほか柔軟性があるので、完全な客観判断は難しいのだ。

まじめにズルをする? グレーゾーンの処世術

さらに興味深いのは、「わりと真面目だと思われている人でも、実はちょっとしたズルを重ねている」という現象だ。書類のちょっとした改ざんや、時間の不正申告、職場での小遣い稼ぎ、副業の申告漏れなど、法律的にはアウトに近いグレーゾーン行為は日常にあふれている。

多くの人はそれを見ないふりをするか、自分なりの理由付けで「まあ、これぐらいは仕方ない」と処理している。そう考えると、「真面目か不真面目か」で社会をスパッと二分するのは難しい。ほとんどの人は、その間で揺れ動きながら生きているわけだ。

“絶対的正義”に固執すると苦しくなる

倫理観を大切にすること自体は悪くないが、そこに完璧を求めると、人間はかえって苦しくなってしまう。「正直者でなければならない」「一切の嘘やズルは絶対許さない」と突き詰めると、世の中の大多数が“敵”に見えてしまい、気疲れするだろう。逆に「どうせ世の中は悪ばかりだ」と達観しすぎても、心が荒んでしまう。

結局のところ、多くの人が適度に矛盾と折り合いをつけて生きている。それをいかに上手にやるかというスキルこそが、人間社会を泳ぐための“知恵”なのかもしれない。もちろん、その妥協が大きすぎてモラルが崩壊しきったら本末転倒だが、ゼロか100かの極端な思考に陥るとしんどいのは確かだ。


不真面目・不誠実がもたらす「刹那的幸福」と「長期的リスク」

刹那的に稼ぐ・快楽を求める生き方

「倫理観なんてクソくらえ。稼げるうちに稼いで、好きなことをして何が悪い?」と開き直る人は、確かに短期的には成果を出すかもしれない。グレーな手法や際どいビジネスで大金をつかむ人もいる。プライベートでも相手の気持ちを無視して自分の欲望を優先するほど、恋愛を乱発できるケースだってある。

こういう人たちは、一見してものすごく楽しそうに見えるかもしれないが、長期的な視点ではどうか。先述したように、いつかトラブルに巻き込まれるかもしれないし、法的制裁を受けるかもしれない。あるいは自身の信用を完全に失ってしまい、新たなビジネスや人間関係において大きな壁が立ちはだかる可能性もある。

ただし、そのリスクを度外視しても構わないと思えるほど“快楽主義”に突き抜けている人にとっては、まさに「今が楽しけりゃそれでいい」。周囲から見れば迷惑な存在だが、当人にとってはストレスなしで生きる術とも言えよう。これが善か悪かという判断は非常に難しい。正攻法では測りきれない人間の多様性がここにある。

長期的リターンを狙う誠実さと信頼

一方、「真面目だけどしっかりした戦略を持つ」人は、長期的な信頼を獲得することが多い。ビジネスでも、顧客や取引相手、従業員に対して誠実に向き合い、嘘や隠しごとをしない方針で組織を作れば、根強いリピーターやパートナーが育っていく。短期的に拡大しなくても、長期的に安定した利益を得られる可能性は高い。

恋愛関係においても、自分勝手に動くより「相手を尊重する姿勢」を大切にすれば、深い信頼が積み重なっていく。もちろん、それによって一時の華やかなモテ方はしないかもしれないが、破綻のリスクは少ないし、長続きする絆が生まれる。要するに「リスクの少ない、安定的な幸福を得やすい」という点で優位性があるわけだ。

とはいえ「じゃあ誠実ささえあれば誰でも幸せになれるのか?」というと、そう単純でもない。やはり情報リテラシーや行動力、思考力が必要だ。誠実さを武器に成功している人は、単純労働で自分をすり減らすのではなく、自分の強みを活かせる場所や戦略を見つけていることが多い。この部分を軽視すると、単なる“都合のいい労働者”として使い捨てられてしまうリスクがある。


「真面目が報われない社会」にどう向き合うか:いくつかのアプローチ

1. 割り切ってメタ視点を持つ

まず一つのアプローチとしては、「社会をありのままの混沌として受け止め、深く嘆かずに、いったん笑い飛ばしてしまう」やり方がある。悲観ばかりしていると精神がもたないし、正義感を突き詰めるほど絶望感が増す人もいる。そんなとき、少し距離を置いて「やっぱり人間社会はめんどくさいよな」と俯瞰すれば、気が楽になるものだ。

さらに、メタ視点を活用して自分の行動指針を定めやすくなるメリットもある。政治やメディアの情報に踊らされずに「なるほど、ここではこういう既得権益が働いているんだな」と観察しながら、自分の力でできることを見極める。過度に理想を掲げるのではなく、ある程度の矛盾は仕方ないと認めるスタンスで生きる、という選択肢だ。

2. 小さなコミュニティを構築する

ネットやオフラインでも、自分が信頼できる人たちと小さなコミュニティを作り、その中で「真面目にやるメリット」を共有するのは有効な方法だ。たとえば、物々交換や互助の仕組みを小規模で回すだけでも、「大きな社会がめんどくさいから切り離してしまえ」という発想になる。

こうした小さなコミュニティは、従来の社会システムからある程度距離を取ることができる。例えば、地方移住した人々が農業や手仕事を中心に助け合う暮らしを構築したり、オンラインの小さなサークルで経済的や人的支援の仕組みを回したりしている例がある。真面目な人同士なら信頼関係も築きやすく、幸福度も高いという研究データもある。

もちろん、それが大規模に広がると新しい利権や対立が生まれる可能性があるので、簡単ではない。結局は人が集まればめんどくさい問題が出てくるのだが、少なくとも大きな社会に翻弄されるよりはコントロールしやすいという考え方がある。

3. 変革を目指す行動を起こす

社会全体が「真面目は損」と感じるなら、そこにメスを入れる活動をするのも選択肢の一つ。政治運動や市民活動、ジャーナリズム、あるいは教育分野での改革など、やれることは無数にある。もちろん苦労は多いし、ときに“正義中毒”と揶揄されることもあるだろう。それでも、少なくとも「なんとか社会を良くしようと動いている」充実感は得られる。

しかも、歴史的に見れば、社会を変えたのは結局こうした市民の行動が大きい。ネット時代は物理的なデモや集会だけでなく、オンライン署名やSNSでの拡散力を使って政治や企業を動かす可能性もある。小泉・安倍政権であれ、他の国の政権であれ、国民が本気で声を上げれば対応を余儀なくされる場面があったのも事実だ。

4. 自分の美学を貫きつつ、柔軟さを保つ

最後のアプローチとして、「自分なりの美学や信念を大切にしつつ、柔軟に世の中を渡る」方法がある。これは極論でも逃避でもなく、「自分はモラルを守りたいが、一方で社会のルールや組織の論理も理解し、うまく折り合いをつける」という生き方だ。たとえば、徹底的に不真面目を排除するのではなく、時には相手の価値観を尊重して妥協点を探る、といったコミュニケーションスキルを磨くイメージ。

ここでのポイントは、固執しすぎないこと。正義感を叫ぶ一方で自分の利益も追求するという“両立”ができれば、周囲から見ても「そいつは信用できるし、でも押し付けがましくない」という存在として重宝されるかもしれない。あるいはビジネスでも「顧客に誠実だけど、しっかり稼ぎの仕組みは作る」というバランスをとることが、長期的な成長につながる。


次元を超えた提案:モラルが通貨になる未来?

モラルポイントが貨幣価値を持つSF的シナリオ

一歩先の未来を想像すると、「金銭の代わりにモラルや信頼度を数値化して、社会全体で流通させる」なんていうディストピアorユートピアも考えられる。たとえば、信用スコアを極限まで発展させて、他者のためになる行為をするとポイントが加算され、そのポイントが経済通貨や生活優遇につながる仕組み。

それが実現すれば、「人を踏み台にする奴はモラルポイントを失い、結果として稼げなくなる」という流れになるかもしれない。だが、一方で管理や監視が行き過ぎて「全行動がスコア化され、プライバシーゼロ」の世界になる危険性もある。結局、そこにも「めんどくさい人間社会」の闇と光が交錯するだろう。

仮想通貨やブロックチェーンが開く可能性

ブロックチェーン技術や仮想通貨の台頭によって、中央集権的な管理を排しながら信用を可視化することがある程度可能になってきた。SNSでの評判や取引実績などを統合して、個人の信用度をブロックチェーン上に蓄積する仕組みをつくる――こうした試みはすでに一部で行われている。

ここでもやはり「倫理性を高く評価すれば、それを資本として成果を得やすい世界になるんじゃないか」という夢がある。だが、その評価軸を誰がどう決めるのか。悪意ある操作や嘘の自己演出をどう防ぐのか。そもそも人間の主観までは技術で正しく評価できないのではないか。いろいろなハードルが待ち構えていることは間違いない。


めんどくさい世界を乗りこなすための具体的アクションプラン

  1. 情報リテラシーを身につける
    • ニュースやSNSに踊らされず、自分で一次情報や複数ソースをチェックする習慣を持つ。
    • 「正義 vs. 悪」の単純図式に陥らないで、背景にある利権や構造も考える。
  2. 政治参加や社会議論の場に顔を出す
    • 投票は当然として、オンラインでもオフラインでも政治や社会問題の議論に積極的に参加する。
    • 「自分一人が声を上げても変わらない」という諦めを超えるには、集団での行動が鍵。
  3. 小さなコミュニティ・サークルを作るか入る
    • 趣味や仕事の仲間で助け合う仕組み、相互扶助の輪を広げる。
    • 真面目に努力する人が報われるルールをコミュニティ内に構築してみる。
  4. 稼ぐ力を鍛える+誠実さを武器にする
    • ただ真面目に働くだけでなく、スキルアップやビジネス情報を学び、戦略的に稼ぐ力を養う。
    • 信頼を積み重ねれば長期的なパートナーや顧客に恵まれやすく、グレーな手法に頼らずとも安定したキャッシュフローを得やすい。
  5. 軸を持ちつつ柔軟に妥協する
    • 自分なりに譲れない倫理や美学を決める。しかし、すべてを絶対視しすぎず、状況に応じて折り合いをつける。
    • 真面目すぎるとストレスが溜まるので、適度なグレーに目をつぶる心の余裕も大事。

まとめ・結論:めんどくささこそが人間社会の本質

ここまで「真面目が損をする社会」から始まり、資本主義の構造、SNSの可視化、政治やメディアへの不信、歴史や未来の展望、そして具体的な対策まで、広範囲にわたって論じてきた。行き着く先は、「人間社会はめんどくさい矛盾のかたまりであり、それを一瞬で解決する魔法など存在しない」という、ある意味でシンプルな結論かもしれない。

しかし、このめんどくささがあるからこそ、人間は試行錯誤し、時には反発し、革命を起こし、新たな制度や価値観を生み出してきた歴史がある。もしも社会が完璧に整合性を保ち、誰も損をしないような構造になれば、一見ユートピアに見えるかもしれないが、それはそれで退屈な世界になるかもしれない。

「正直者がバカを見る」という古い言い回しが、インターネット時代に再燃しているのは、社会の歪みが可視化されやすい一方、あまりにも複雑で解決策が見えにくいからだろう。政治的無関心や情報過多の中で、個人は翻弄されがちだ。それでも、真面目に努力を続ける道を選ぶか、不真面目に振る舞うか、中立にやり過ごすか、変革を求めるか――最終的には、各人の選択に委ねられる。

めんどくさい世界だからこそ、逆説的に「こう生きるのが正解だ!」という答えはない。時には逃避したっていいし、時には戦うのもいいし、小さな集団で協力するのもいい。人々がその多様な生き方を持ち寄ることで、社会は何とかバランスを保っているのかもしれない。

感動で締めくくるなら

実は、「めんどくさい社会だな」と嘆きつつも、この複雑さこそが人間の面白さであり、希望の源でもある。誰かが不誠実に振る舞っている一方で、誰かは自分の信念を曲げずに立ち上がっている。誰もが絶望を唱えながら、誰かは理想を追い求めている。

そんな矛盾した世界を見渡すとき、ふと胸が熱くなる瞬間がある。弱い立場の人が声を上げて、小さな改革を勝ち取る瞬間。大量の情報の海に埋もれずに、自分の言葉を発信して共感を得る瞬間。「真面目に生きていて良かった」と心から思えるような出会いや絆が生まれる瞬間。どれもが奇跡のような出来事だ。

だからこそ、めんどくささを完全に否定せず、「そういうカオスの中でしか咲かない花もあるんだ」と受け止めながら、自分なりの一歩を踏み出していければいいのではないだろうか。社会の闇と光、そのすべてを呑み込んでしまうような圧倒的な混沌こそが、「人間」という存在の証だ。そして、その混沌の一部として自分も生きているんだと思えば、少しだけ勇気が湧いてくるかもしれない。

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投稿者プロフィール

そうた
そうた社会を静観する人
近況:Netflix, ゲーム, 旅, 趣味の日々。

■趣味
読書, 映画鑑賞, 音楽, 旅行

■ビジネス歴
・2011年9月頃にオンラインビジネスに参入
└ブログ, SNS運用, YouTubeなどの各ジャンルを経験

・オンラインビジネスチームへの参画
└各プロモーションのディレクター兼コピーライター,
 他社へのコンサルティングなどを経験
└他社とのジョイントベンチャー(共同事業)
└海外スタートアップへの参加(コミュニティマネジメント, コピーライター)

■現在
・オンラインスクールの運営
・個人, 法人向けのマーケティング, 商品開発等のサポート

■考え方
バイト, 会社員, フリーランス, 経営者...などの働き方を経験した結果,
「群れるより1人で稼ぐ方がストレスが無い」と気づく。
現在は集客, 販売, サービス提供を仕組み化(自動化)。

■活動目的
「自由な人生を実現したい」
「ネットビジネスに興味がある」
「始めたけど結果が出ない」
という人へ最適解を提供。

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